グレゴリオ聖歌 2


齋藤克弘

 教会の中でもグレゴリオ聖歌はグレゴリオ1世教皇の時代、いや、それ以前の昔からローマの教会で歌われてきた聖歌だと考えられていた時代が長くありました。しかし、近年の研究によってグレゴリオ聖歌はかなり複雑な歴史を歩んできたことがわかりつつあります。わかりつつあります、と書いたのは「楽譜の発展」でも書いたように、まず、グレゴリオ聖歌も含めて古い時代の聖歌は正確な記録がなされていないことから、楽譜が書かれるようになる前には、どのような旋律で歌われていたのかがはっきりしないからです。楽譜がかかれるということは何らかの形で歌い方、あるいは演奏の仕方が記録されるということです。どのようなものでも、記録されることで初めて、後世にほぼ誤りなく伝えられるということなのです(伝えられる内容自体に意図的に手が加えられているかどうかは別問題としてですが)。

Portrait of Pope Gregory I — Image by © Bettmann/CORBIS

さて、グレゴリオ聖歌の歴史を垣間見るには、まず、古代からの教会の歴史を簡単に振り返る必要があります。ナザレのイエスがこの世界から去られた後、しばらくの間、まだ「キリスト教」という宗教はありませんでした。現在のキリスト教は「ナザレ派」というユダヤ教の一宗派にすぎませんでした。それが紀元70年、ローマ帝国によってエルサレムの神殿が灰燼に帰し、神殿宗教としてのユダヤ教が消滅すると同時に「ナザレ派」は「キリスト教」という新たな枠組みとして歩みを始めます。古代ローマでは皇帝ネロを初め、多くの皇帝から迫害を受けましたが、それは、ある単語の使用方法が問題となったからです。

それは「主=ギリシャ語のキュリオス(Κυριοs)」ということばです。このことば、当時は神格化されたローマ皇帝だけに使うことが許された称号だったのですが、それをキリスト信者たちは「ナザレのイエスこそわたしたちの主である」とナザレのイエスへの称号としました。そのために、キリスト者たちはローマ皇帝を主として認めない政治的な犯罪者として迫害の対象になったわけです。このような迫害時代を超えて、皇帝コンスタンティヌスによるミラノの寛容令によって、キリスト教を公認すると様相が一変に代わります。それまで、ローマの教会でも典礼(礼拝)における聖書の朗読や祈りのことばはギリシャ語が用いられていましたが、誰にでもわかるラテン語へとことばが変わっていきました。また、教会の祭儀においてもローマ帝国の宮廷の儀式の要素が取り入れられていき、教会の司牧者である司教もローマ帝国の官僚と同じ待遇を受けるようになります。4世紀の終わりにローマ帝国は東西に分割されると、西ローマ帝国は周辺の諸部族の侵入を受けるようになり、5世紀の末にはオドアケルが西ローマ帝国の実質上の支配者になります。

ローマ帝国が統一されていた時代は教会も中央集権化された帝国の連絡網によって情報や制度が補完されていたようですが、帝国が分裂し、さらに西ローマ帝国が周辺諸部族の脅威にさらされるようになると、帝国の連絡網も分断され、教会の典礼も各地で独特の歩みを始めるようになります。それに伴い、聖歌も各地で独特の歌詞や旋律が歌われるようになっていったようです。ただし、この時代のことは政治の混乱もさることながら、楽譜の発展でもふれたように、まだ楽譜がないころのことなので、どのような旋律の聖歌が歌われていたのかどうかは残念ながら知ることができません。

グレゴリオ聖歌の名前の由来となった教皇グレゴリオ1世の時代になると、教会は西ヨーロッパの各地への宣教にも力を入れていきます。特に有名なのが後のカンタベリーの司教となったアウグスティヌスの派遣です。その他にもグレゴリオ1世は周辺諸部族に対してキリスト教的な秩序と精神を受け入れるようにと促しました。このようなグレゴリオの努力によって、ガリアやイングランドにローマ教会と同じ信仰を保つ教会が広まっていったことは疑いの余地がないでしょう。

今回はローマ帝国と教会の歴史の話になってしまいましたが、教会、特にローマ教会の歴史の理解がないとグレゴリオ聖歌の歴史も触れることができなくなってしまいます。次回もこの後の教会の歴史とそれに先立つフランク王国の歴史に触れてグレゴリオ聖歌の成立にまで話を進めたいと思います。

(典礼音楽研究家)

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