《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 27:神との対話のたまもの


神との対話のたまもの

 

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答五郎 ……今回は「ことばの典礼」の7回目。ミサの中で聖書を朗読する意味を考えているが、第2朗読の使徒の手紙の朗読が、どういう意味で神のことばの朗読なのかということに、ひっかかっているのだったね。

 

 

瑠太郎……使徒の手紙、たとえば、パウロの手紙が当時の教会だけでなく、全教会にとって普遍的な価値があるから聖書になっているのだろうということはわかりました。でも、実際に、人間であるパウロが「皆さん」と言って語りかける以上は、それは使徒パウロのことばですよね。

 

 

聖子……具体的にするわよ! たとえば、2017年7月30日の年間第17主日(A年)の『聖書と典礼』を見ると、第2朗読はこう始まる。「〔皆さん、〕神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8・28)。

 

 

 

瑠太郎……パウロは「わたしたち」と言うことで教会の信者として同等の主体として語っていますよね。

 

 

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答五郎……そうだね。それとパウロの場合、「わたしは」というような語り方も多いからね。たとえば、ローマ書だと、「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。」(1・9)。「わたしは福音を恥としない」(1・16)とかね。自己主張が強いようにも聞こえるし、人間臭さが強く感じられるだろう。かえってそのようなところがパウロを身近に感じさせるのだね。

 

瑠太郎……問次郎さんから聞いたところ、答五郎さんは「年季田パウロ答五郎」とおっしゃるのでしたね。パウロがお好きなのですね。

 

 

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答五郎……はっはっ。それはともかく、パウロの言う「わたし」は、イエスのいう「わたし」、たとえば、前々回に読んだ、イエスが湖の上を歩くエピソードの中で「安心しなさい。わたしだ、恐れることはない」というときの「わたし」とは意味合いが違うだろう。こちらの「わたし」は神の自称のように重みがあるのだ。パウロの「わたし」のほうは、使徒としての使命を受けた者としての思いがたぎっているように響くのだよ。

 

聖子……「使徒(しと)として」? 「人(ひと)として」と紛らわしいわね!

 

 

 

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答五郎……日本語が似ているからしようがないよ。瑠太郎くんは、「使徒は人間でしょう」と、預言者が主のことばを告げるときやイエスが語るときと違っている点にこだわっていたけれど、その「使徒とは何か」を考えることが、この「神のことば」問題を考える出発点だと思うよ。

 

瑠太郎……どのように考えていけばよいのでしょうか?

 

 

 

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答五郎……使徒とは、最初12人としてイエスから使命を授けられて、神の国の福音を告げ知らせる役割に召された人たちだ。実際には、イエスの死と復活を経験し、聖霊降臨を受けてから本格的に使徒としての宣教を開始する。イエスの生きていた間、皆いろいろ不理解や迷いがあったことなど、ペトロのエピソードを筆頭に福音書には描かれていただろう。

 

聖子……あったわね。ペトロがイエスを知らないと言った話(マタイ26・69〜75他並行箇所)はどの福音書にも書いてあるわ。福音書って、そういうところをあけすけに伝えるのよね。

 

 

 

瑠太郎……そういえば、パウロにしても、迫害をしていたとき、「サウル、サウル(=パウロの前名)、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけるイエスの声を聞いたのでした(使徒言行録9・4)。そうして回心して、異邦人への使徒と呼ばれるようになったのですね。

 

 

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答五郎……そうだね。つまり「使徒」というのは、イエスとの出会いを経験して回心して、神の召命を受けて、その使命に生涯をかけていくようになった人のことだ。そのような人たちが教え、語ることばが手紙という形で伝わっていった……ということは、彼らのことばは、イエスとの出会い、そしてイエスを通じての父である神との出会いのたまものだということになる。

 

聖子……イエスとの出会い、神との出会いのたまものであることばたち……美しい表現ね。

 

 

 

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答五郎……そう、みんなだって、なにかの体験、だれかとの出会いがなければ、こんなことを言えるようにはならなかったな、ということがあるだろう。

 

 

瑠太郎……そうですね……。ことばって一人の人の持ち物ではないですね。人とのかかわりの中で生まれていくものですね。

 

 

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答五郎……もともと、ことばというのはだれかと心を通じ合わせるためのもの。独り言のことばが本来ではなく、会話や対話のことばが本来の姿だろう。

 

 

瑠太郎……神のことばも、人とのかかわりの中にあってのことばなのですね。

 

 

 

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答五郎……だから言っただろう。「初めに『呼びかけ』があった」って。神のことばとは、神が話しかけ、人が答える、人が呼びかけ、神がそれに答える、といった心の交わし合い全体を意味するのではないだろうか。そこに「祈り」があるのだ。

 

瑠太郎……すると、使徒の手紙のことばは、その中に神との対話が含まれているということが重要で、つまり、そこには「神のことば」が響いているのですね! 朗読されることで、そんな対話の気持ちや理解の様子が生き生きと伝わってくるのですね!

 

 

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答五郎……典礼では、その典型的な箇所が読まれるから心に留めてほしいものだ。さて、実は、そのことをよく示す、「ことばの典礼」の大きな要素が、第2朗読の前に歌われる「答唱詩編」なのだよ。これも深いものがあるよ。次回から考えてみよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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