ナザレのイエス


福音書のなかで好きなところは?と聞かれると私はルカ4章16~30節をいうことにしている。イエスが自分の出身地のナザレで説教をする場面である。はじめて聖書を読む人にはこんな所もあるんだと驚きを禁じ得ないだろう。

 

その説教を聞いて人々は「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いていった。『この人はヨゼフの子ではないか』」という。

するとイエスはいう。「預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」と預言者エリヤやエリシャの例を出す。

「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖までつれていき、突き落とそうとした。イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」というのである。

 

福音書の場面に入り込み現場にいるひとりになりきって、この場面を想像するという作業は「イグナチオの霊操」ですすめられる黙想であるが、この場面ほど豊かに想像をかき立てられるところはそうない。

よく読むと前半ではナザレの人はイエスの説教に感心してイエスをほめていた。後半をいったら人々は怒り出したという。ならば後半は言わずもがなのことだった。言う必要もなかった。なのになぜわざわざイエスはそう言ったのだろうか? 後半で書かれていることを先取りしていったらやはりそうなってしまったという感じである。

町の人はこの説教をしている人が「大工の子イエス」であると知ってから評価が豹変した。ということはイエスがナザレではどういう人物として受け取られていたのだろうか? ほかの箇所では「イエスは大酒飲みの大食らい」(マタイ11章19節)と言われている。どんな青年だったのか? あんまり評判は芳しくなかったようである。

「町の外へ追い出し、崖から突き落とされそうになる」というのも人々の怒りの激しさが想像される。町から追い出され、山の崖までどんなうふうに連れて行かれたのか、イエスは身の危険を感じなかったのか、イエスは何を考えていたのか、少なくともイエスはこれに抵抗していない。言い合いをした様子もない。

そしてイエスは「人びとの間を縫って」そこから逃げ出したというところではイエスのすばしこさが描かれる。子ども時代、近所の悪ガキたちと遊んでいて、そこで鍛えられたすばしこさではないか。

この箇所はマルコにも併行箇所がある。(マルコ6章1〜6節) マルコは「イエスが大工の子であることを知って人々はつまずいた」としか書かれていない。崖から突き落とされそうになった話はない。さらに「人びとの不信仰」をなげく。

マタイにもある。(マタイ13章53〜58節) 基本的にマルコと変わらない。最後に「人びとが不信仰だったのでそこではあまり奇跡をなさらなかった。」と結ぶ。

聖書にこんなところがあるのかと驚くような箇所は皆おもしろい。これは知られるとイエスの(イエスと言うよりは弟子たちか)評判をおとしかねないような箇所があえて書かれているところである。

イエスの本当の姿を追求する「史的イエス論」の立場からいうと、こういう所こそあとから背びれ胸びれをつけられた姿ではない、本当にあった「歴史のイエスの姿」だという。

妻が亡くなる前の2013年10月妻と一緒にイスラエル巡礼ツアーにいったときに、じつはこの「突き落としの崖」の下をバスで通った。むかしは崖の下に教会があったそうだ。この「突き落としの崖」をネットで探したら映像と写真があった。

 

 

「福音の村」晴佐久神父説教集で。この箇所をテーマにした説教福音の村晴佐久神父説教がある。これもまたおもしろい。

土屋 至(元清泉女子大学講師 「宗教科教育法」担当)

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