《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 19:集会祈願~~祈りとはそもそも何?


集会祈願~~祈りとはそもそも何?

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答五郎……さて、ミサの開祭を順に見て来たけれども、ようやく最後の部分に入るよ。

 

 

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問次郎……集会祈願というところですね。

 

 

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答五郎……見学してどうだった。あわれみの賛歌、栄光の賛歌と、かなり力が入った歌のあとだから、ここの祈願のところは、すっと聞き流すような感じならなかったかな。

 

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問次郎……えぇ? ひょっとして、それは、答五郎さんのようなベテラン信者さんだからではないですか。自分たちはすべてが新鮮なので、集会祈願もじっと聞いていますよ。

 

女の子_うきわ

美沙………歌が続いたあとに、すーっと心を静めてくれるような祈りだなと思うことがあります。

 

 

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答五郎……そうか。初心に戻らないとな。では、集会祈願とはどういうものか見てみよう。開祭の各部分を見ると、たとえば、回心はいろいろな形式があり、あわれみの賛歌も回心の第3形式と結びつく場合があり、実は多様だ。栄光の賛歌に至っては週日には歌われないし、待降節と四旬節の主日にも歌われないという原則がある。すると、開祭の部分で変わらないであるのは何だろう?

 

女の子_うきわ

美沙………それが集会祈願なのですね。

 

 

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答五郎……そう、そこが大事だと思う。開祭であまり目立たないのに、実はなくてはならないものが集会祈願だよ。それと、最初の挨拶の対話句「~~皆さんとともに」「また司祭とともに」の部分も古い。切り出しの文言は、今は選べるのだけれどね。「父と子と聖霊のみ名によって」「アーメン」は後で入ったらしいから。

 

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問次郎……そうすると、挨拶の対話句と集会祈願が、ほんとうの開祭の柱なのですね。

 

 

女の子_うきわ

美沙………主がわたしたちと一緒にいらっしゃることを確認して、その主キリストによって、父である神に祈りをささげるのですね。

 

 

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答五郎……もうすっかり信者さんの言葉のようだね。ところで、集会祈願というのは、ミサの祈りの中では「公式祈願」に分類される。「原語では「司式者祈願」とも訳される語だ。ただし祈願は、会衆一同が「アーメン」と同意してささげられる共同体の祈りなのだから、司式者だけの祈願というふうに理解するとまずいよね。日本語の「公式」の「公」というところは、かえって祈りの姿にはあっているかもしれない。その上で、司式者が会衆を代表してささげる祈りという意味では「司式者祈願」といえるかもしれない。

 

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問次郎……「集会祈願」は原語ではどういうふうに言うのですか。

 

 

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答五郎……ラテン語ではコレクタ。いろいろな由来背景があるらしいが、もう長く伝統的な呼び名だ。英語のコレクションにもなるラテン語で、平たくいえば「集められた」だ。

 

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問次郎……はぁ、そこで「集まり」のための祈願だから「集会祈願」と訳されたのですね。

 

 

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答五郎……実は、そこがちょっと違う。「コレクタ」とは「集められた祈り」を指すらしいのだ。そこで考えてほしい。この祈願の部分の式次第は、どうなっている。

 

女の子_うきわ

美沙………はい。「栄光の賛歌が終わると、司祭は手を合わせたまま会衆を祈りへ招く。『祈りましょう』。会衆は司祭とともにしばらく沈黙のうちに祈る。続いて司祭は手を広げて集会祈願を唱え、会衆はその結びに応唱する。『アーメン。』」とあります。

 

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答五郎……つまりこういうことだ。ミサ典礼書に出ている集会祈願と書かれた祈願文は、広い意味の集会祈願という式の部分の最後のものだ。

 

 

女の子_うきわ

美沙………会衆の祈りまで含むのが、集会祈願の本来のすがたなのですね。

 

 

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問次郎……でも、いきなり「祈りましょう」と言って、すぐ祈願を唱える司祭もいますよね。

 

 

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答五郎……でも、反対に、何かの招きの語句を加えながら、「祈りましょう」と言って、じっくりと間をとり、祈りへといざなってくれる司式に出会うものだよ。

 

美沙………信者の皆さんは、沈黙のうちに何をどう祈るのでしょうか。

 

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答五郎……沈黙のうちに、というのは、心の中で声を出さずに何かの言葉を唱えてするものと思うかな。でも、皆の祈りを集めて、最後に言葉の形の祈願をするのか司祭の役目だろう。

 

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問次郎……というと、皆は、沈黙かつ心に何も言葉を浮かべなくてもよいということですか。そうすると、ぼーっとしてしまうのでは?

 

 

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答五郎……それも大事かもしれないよ。何も思わず、何もせず、ただ心を無にするっていうことがね。今、ここに信者として集まっている、そこにはキリストがいる、父である神が見てくださっている、その状態に集中するというか。

 

美沙………神を意識しながら、心を無にすることが祈り、それは深いですね。ミサがいいなと思うのは、そのような心の状態が大事にされているなと感じるときです。もっと味わいたいなと思います。

(つづく)

                        (企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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