山上の説教と平地の説教を読み比べてみるとおもしろい


前回はマタイ福音書5章のいわゆる「山上の垂訓」の「心の貧しい人は幸い」という箇所について述べた。今回はそこの併行箇所であるルカ6章20節以降の「平地の説教」とマタイ5章の「山上の説教」と読み比べてみよう。

まずこの文を先を読み進める前に実際にマタイ5章とルカ6章とを読み比べてその違いを書き出してほしい。その後で以下を読み続けられたい。

なぜこれが「平地の説教」と呼ばれるのか、ルカ5章17節を読めば「イエスは彼らと一緒に山

ガリラヤの丘

から下りて、平らなところにお立ちになった」とあるのが所以でこれが「平地の説教」と呼ばれるようになった。

マタイ5章の「山上の説教」では「真福八端」といわれるように8つの教えがあるが、ルカでは3つしかない。

しかもルカでは不幸の例の否定形が表現されている。「今富んでいる人」「今満腹している人」は「不幸だ」というのである。

また、ルカの方では「心の貧しさ」というような表現ではなく、「貧しい人」である。この違いは小さくない。「義に飢え渇く人」ではなく「今、飢えている人」と直接的、現実的である。ルカの方には「今、貧しい人」「今、泣く人」というように「今」という言葉がめだつ。

まだある。マタイの方は「神の国はその人たちのものである」とあるが、ルカは「神の国はあ

ガリラヤ湖

なた方のものである」となっている。どちらが貧しい人たちに向けて直接語っているのだろうか? ルカの方が貧しい人に直接語りかけていることになる。

そうすると「心の貧しい人」というのは「心底貧しい人」や「乞食の心を持つ人」というような表現よりもそれを少し薄めた形で述べているのではないか。「おのれの貧しさを知る人」あたりの訳が適当であるように思うがいかがであろうか? マタイが対象としていた人たちはユダヤ人の極貧層というよりもそれより少し上の人たちであったのではないかと推測されるのである。

土屋 至(元清泉女子大学講師 「宗教科教育法」担当)


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