1614年長崎のレント(四旬節)と村山等安


1614年は、高山右近や内藤ジョアン、原マルチノ、ペトロ岐部らのキリシタンが日本からマニラやマカオに追放された年である。12月のことであった。

その年のレント(四旬節)に長崎で何が起こっていたのか、歴史上にはほとんど現れてこないが、今ではほとんど考えられない大変なことが起こっていた。数千人規模のキリシタンが集まり、20日にわたり大デモンストレーションを敢行したのである。しかもあるものは鞭を自分の体に打ち付け、あるものは十字架を担ぎ、荒縄で身を縛るなどの「苦行」を群衆の見守る前で行った。

これを主導したのは村山等安と「ロザリオの組」である。この頃のキリシタン信徒の動きの主流は「慈悲の組(ミセリコルディア)」や「聖母の組」などのイエズス会系ではなく、「ロザリオの組」や「十字架の組」などのドミニコ会系の組であった。

イエズス会が日本の旧来の宗教や習俗に一定の理解を示すのに対して、後から参入してきたフランシスコ会やドミニコ会は妥協を許さない熱烈な信仰を示し、殉教を最高の生き方として信徒を煽っていた。その結果がこの大デモンストレーションであった。この確執は当時世界中で起こっていて、中国では「典礼論争」と言われるような事件となっている。同じカトリック教会の中でも17世紀のイエズス会とフランシスコ会やドミニコ会などの托鉢修道会の確執は醜悪であり、日本のキリスト教宣教の歴史に汚点を残した。

これが家康と幕府を怒らせ、ついに右近らの国外追放を早めたと言ってもいいだろう。まさに大挑発行動であったのである。

ところでこの村山等安という人物はとても興味ふかい生き方をした人物である。才知に長け、弁舌爽やかで。しかもたくましい商魂の持ち主で、キリシタンでありながらも秀吉にも家康にも長崎代官であることを認められた。

富と権力を得た等安は次第に堕落し、イエズス会からは大悪人と呼ばれ、家族からも見放された。

しかし、1610年ごろ劇的に回心、教会や修道会への援助をし、キリシタンの信仰を守るようになってこの大デモンストレーションを敢行、一族のほとんどが殉教するまでになっていく。

村山等安については小島幸枝著「長崎代官村山等安―その愛と受難」( 聖母文庫、2002年) が面白い。

ここにも私が書いたものがある。

参考 http://tsuchy1493.seesaa.net/article/394056621.html

(土屋至/元清泉女子大学講師「宗教科教育法」担当)


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