沈黙の風景 3


服部 剛

 

旅先の宿で時を忘れ、『沈黙』のページを捲ってゆく。しばらくのち、顔を上げて時計を見ると、針はすでに午前0時を過ぎていた。〈今夜はクリスマスだ〉と思い起こしながら、静寂の中、本の中にいる【踏絵のあの人】の顔を、私は瞼に浮かべた。

目の前に迫る、死の暗闇の只中に坐るロドリゴの傍らには、不思議なほど優しい気配があり、その深く澄んだまなざしは、ロドリゴのみならず読む者をも見つめている…。そんな予感を覚えた私は一瞬、小さく息を呑んだ。もし、その深く澄んだ【あの人】の瞳に、一度でも、言葉にならぬ想いで見つめられていることを知ったならば、〈私はあなたの哀しみを知っている〉と囁く声を心で聴いたならば、人は生涯、その瞳を忘れることは無いであろう。

キチジローは、自らの弱さと罪の汚(けが)れに耐えかねて、縋(すが)るように許しを

外海の海

乞い、何処までもロドリゴを追うであろう。だが実は、体を持たない神のまなざしこそが、魂の救いを求めるキチジローを追っているのではなかろうか? 誰もが心の奥で、密かに愛と優しさを求める以上に、今から二千年前、十字架に掛けられたあの人がある日、弟子に「私は渇いている」と語ったように、私達の日常に隠れている神は沈黙の内に人間を探し求め、あらゆる出来事の中に働き、今日も関わろうとしている。日常から遠く離れた旅先の島の宿で『沈黙』を読み進めるうちに、私はいつしか、自らの無意識の領域におられるであろう神の存在を感じた。

机の上に『沈黙』を置いた私は、〈人間にとって“消えないもの”とは何か?〉を、思い巡

五島の教会

らせていると、聖書の『最後の晩餐』の風景が思い浮かんだ。そして、自らが十字架に掛けられる前夜、イエスは弟子達一人ひとりの足を洗い、「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと何の関わりもなくなる」と語った時の瞳と、『沈黙』の中で、ロドリゴが踏絵を踏もうとするその時、足裏の下にいる【踏絵のイエス】の瞳が、私の心の中で重なった。そして、ロドリゴの足裏を通して、イエスの御心(みこころ)がロドリゴの中に入ったのを、私は感じた。「今までとはもっと違った形であの人を愛している」(*1)と棄教後のロドリゴが語る言葉からは、信仰の核心にふれた者の実感が、深く沁

みわたってくるのである。

まるで黙想のような感覚で聖夜の読書を終えた私は、畳の部屋の明かりを消して、布団に入った。五島列島に来る前に寄った、遠藤周作文学館の鉛色に広がるパノラマの海が、私の脳裏に映し出された。あの日、館内には『キチジローはわたしだ』という見出しの、遠藤が寄稿した新聞記事が展示されており、自らの心の中にいる「キチジロー」から目を逸らさず、己の弱さをも『沈黙』という物語の中に描き切った遠藤周作というカトリック作家の信念を、私は思う。

人間の心には、それぞれに異なるかたちで「キチジロー」が住んでいるのかもしれない。

踏絵が行われた可能性のある場所

だが、もしも自分の中にいる「キチジロー」が、人間である自らの弱さを知って跪(ひざまず)き、無心で両手を合わせるならば――頭(こうべ)を垂れる者の上には、目に見えない恩寵の光が降り注がれるであろう。今から350年以上前、長崎のある寺に住む、和服を着た沢野忠庵こと、ロドリゴの師・フェレイラの背に、夕暮れの陽射しがそっと注がれていたように。

 

※文中の*1は、遠藤周作著『沈黙』(新潮社)より引用しました。

 


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