沈黙の風景 1


長崎から車で一時間近く走り、海沿いの坂道を上り下りすると、旧外海(そとめ)町に入る。【遠藤周作文学館】の小さな看板が目にとまり、左折すると、灰色の空から雨は降り始め、車を出ると、冷たい風は旅人の私の頬を叩き、無数の雨粒はコートを濡らした。足許には、紅の花弁らが泥に塗(まみ)れ、哀しげに散っていた。季節は待降節、3日後はクリスマスだが、心の中では、年明けに公開される映画『沈黙―サイレンス―』のことを思い巡らせていた。目の前に広がる暗黒の海を映画の情景そのもののように感じながら、私は〈巡礼の旅の始めに…枯松神社へゆこう〉と、心に呟いた。

先ほど車で走った道を5分ほど戻り、海を背に坂を上る。道が細くなった所で、私は車を降りた。石段の

枯松神社

枯松神社

道のある山の茂みの中へ入っていくと、胸の中に静かな鼓動が高鳴ってゆく。宣教師サン・ジワンを祀(まつ)るこの枯松神社は、日本で3ヶ所しかない切支丹の神社である。石段を上る途中の左手に、円盤のような巨大な岩が姿を現した。白い看板には「祈りの岩」と書かれている。迫害の時代に隠れ切支丹は、この岩の裏側に身を潜めて、互いに体を寄せ合い、ひたすら信仰の言葉“オラショ(祈り)”を唱え続けたという。〈そこまでして… 迫害の恐怖の中でも消えない“信仰”とは、一体何か?〉。私の心の中に、深い疑問は広がってゆく。湿った枯葉を踏みしめながら、岩の裏側に入ってみる。冷えた地面に腰を下ろし胡坐(あぐら)をかくと、頭上を覆う岩は低く、首を伸ばすことさえできない。目を瞑り、祈ると、木々の葉は風にざわめき、何かを囁いた。無明の闇の中、狭い岩陰に身を置く。当時の切支丹の人々の息遣いが、すぐ傍らに感じられる。そして、信仰の地を訪ねて旅をした在りし日の遠藤周作もまた、ここに来たであろう姿が

祈りの岩

祈りの岩

瞼(まぶた)の裏に浮かんだ。

遠藤が著した小説『沈黙』に描かれている、旧外海の海の中に立てられた十字架上で棄教を拒み、拷問の果てに苦しみ抜いて死んだモキチが、最期の命を振り絞って唱えたオラショを、私は繰り返し唱えてみた。姿の無い切支丹の人々の――時を越えた祈りの声がさざ波のように寄せては返すのを、全身全霊のうちに、私は感じた。

その晩、私は旅の宿で、改めて『沈黙』という作品について、思い巡らせた。遠藤がかつて、大浦天主堂の近くで展示されていた踏絵を見たことを契機に、この小説は書き始められたという。人は誰もが、一生の何処かで“踏絵”を踏むことを迫られるのではないか、と感じる。過ちの大小ではなく、自らが歩いた道を振り返る時、全く悔いの無い人はいないだろう。そして、人間の深層意識には、いくつになっても温かな愛情を求める〈子ども〉がおり、人生の旅路を天から見守り、深い後悔さえも赦(ゆる)し導く存在を、心の何処かで探し求めているのではないだろうか? 50余年前、遠藤が発表した『沈黙』は、人間の魂にとっての根源的なテーマを、今もなお私達に問いかけている。

(服部剛)


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