教皇ヨアンナの神話


中世ヨーロッパでは女性教皇の存在が信じられていたという。キリスト教が歩んできた歴史の陰影を垣間見させる、近年注目のトピックを扱った書の一つを紹介する:
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アラン・ブーロー著 リディア・G・コクレイン英訳『教皇ヨアンナの神話』
Alain Boureau/ tr. Lydia G. Cochrane, The Myth of Pope Joan, Chicago: The University of Chicago Press, 2001, x+385pp.

事実ではないが、中世にヨアンナという女性の教皇がいたという伝説がある。中世では、ラテラン大聖堂で行われた教皇戴冠式で二つの椅子が使われ、その一つが教皇に選出された人物の性別を確認できるように造られていたり、また出産の苦しい様子をまねるしぐさをすることになっていたりしたことは、女性教皇の伝説が事実と信じられていたことを示している。本書は1988年にフランスで出版され(原題は“La papesse Joan”)、2001年に英訳されたもので、この伝説がどの時代から、なぜ、どのようにして発生したか、さらにヨアンナ像がどう変化したのかを取り上げたものである。フェミニズムが唱えられる現代、女性教皇ヨアンナの伝説は魅力ある伝説である。

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中世では、ヨアンナは実在の人物と信じられており、教会もそれを認めていたようであるが、著者はこの女性教皇が実在したことをきっぱりと否定する。この伝説が発生したのは13世紀の終わり頃であり、それはすぐ決まった筋をもつ伝説になった。― 850年頃ドイツのマインツでブリテン人の娘として生まれた女性が、学者人生を選び、男性だけの世界に生きていた恋人と一緒になるために男装し、見破られずに学問の世界で成功した。やがてアテネに留学し、ローマに来て教皇を取り巻く司教たちの人望を集めて教皇の座に登り、2年間在位したが、ラテラン大聖堂からヴァティカンまでの行列中に出産し、死亡したというものである。― この伝説はいずれの形でもその根拠を示さず、それ以後、新教皇の即位式でヴァティカンからラテランへの行列がサン・クレメンテ教会に達すると、スキャンダルの場所を避けて通ると言い伝えられ、それを示す石碑がその場所に立てられたとしている。

著者は、この伝説の背後に、ローマ時代の習俗や教皇制度の初期の習慣やラテラン大聖堂とヴァティカン大聖堂の間の競争関係、ヴァティカン大聖堂に教皇即位式を奪われたというローマ市民の嫉妬心に基づくパロディーとしての性格等々に起源を有する言い伝えが古くからあり、それが13世紀から14世紀にかけて文書化されたと考えている。女性教皇ヨアンナが実在したと、中世では誰もが信じていた。著者は、教会がこの伝説を支持した理由を当時の教会論の議論によって解明し、同時に、女性教皇についての考え方を通して当時の中世の女性観を知ろうとするのである。

ヨアンナの伝説が初めて記録されたのは1255年、フランスのメッスの修道院においてであり、ドミニコ会士ジャン・ド・メリーの『万国年代記』の中であった。こうしてローマから遠く離れた地方で、ヨアンナは新しい生命を得たのである。以後、1250年から1450年の間に聖職者たちが書いた記録の中で、彼女は雑談のトピックとなったが、誰一人として彼女の実在を疑ったり、彼女に敵意を示したりする者はなかった。教皇たちも彼女の事件を記念して行列の通路の迂回を忠実に守っていた。少なくともフス派の運動が起こる頃(15世紀)まで、教会は今日ではそのような自らへの信頼性を崩しかねない事件が実際にあったと信じ、教えていたのである。

ローマの巷で口づてに語られていた小話が年代記に取り上げられると、その記述は一種の権威をもつようになる。特にジャン・ド・メリーの記述はドミニコ会の著者たちによって書き写されて広がっていった。その過程で、それはまず司教を選ぶ時は慎重でなければならないという教訓の例となり、『黄金伝説』の著者ヤコブス・ア・ヴォラギネ(1228/29〜1298)は、『ジェノヴァ年代記』(1297頃)の中で、この逸話の後に長い道徳的教訓を付け加えている。

やがてヨアンナはフランシスコ会士の著書にも現れ始める。1260年、フランシスコ会士マルティヌス・ポローヌス(1278頃没)は、『年代記』で「天使的教皇」の出現の前触れの偽教皇としてヨアンナのことを噂話としてではなく、教皇制度との関係で取り上げた。「天使的教皇」のテーマは、フィオーレのヨアキム(1135頃〜1202)の黙示思想とその流れを汲む運動に関係しているものだが、フランシスコ会士たちの傾向はそれに同情的であった。さらに二人の教皇が現れ、キリスト教圏の分裂(アヴィニョン教皇時代 1305〜1377)が起こったとき、ヨアンナの事例は教皇選挙が正しく行われなかった場合、無効とされる可能性をもち、スキャンダルが生じたときには退位を求めることができることを示すと主張された。ドミニコ会側とフランシスコ側はそれぞれ自分たちの利害に基づく異なったヨアンナ像を発展させていき、中世末の教会問題との関係で彼女の事例は教皇選挙ばかりでなく、教会のあり方をめぐる神学論争の次元にまで高められた。

一方で、著者は、二つの修道会が提示した異なるヨアンナ像のうちに中世の女性像の二面性を見ている。それは彼女が人物像として、ジャンヌ・ダルク(1412-1431)の場合と同じように、賢女と悪女、キリスト教的女性預言者と異端運動の女性指導者・魔女の両面を持っていたことを意味する。中世では異端者は魔法や悪魔に結びつけられており、中世末期の黙示的異端セクトが次から次へ姿を現した不安定な社会情勢の中で、ヨアンナの悪女のイメージが強まっていった。

ヨアンナは、中世から近代への転換期の社会の心理的不安の中で黙示録(17-18章)に登場する大淫婦バビロンのイメージに結びつけられていく。カトリック側との論争で反ローマ感情を高めていったルター(1483〜1546)は、教皇が大淫婦バビロンであり、黙示録で預言されているようにもうすぐ倒されると宣伝した。淫婦でローマ教会を捉えるイメージの意識の底で、キリストの教会を乗っ取った女性教皇ヨアンナ=魔女・淫婦・悪魔→反キリストのイメージがあったのである。著者は、1520年頃、ルターの故郷ザクセンで女性教皇ヨアンナのことがよく知られていたとする。1550年以後、ルター派の論争文書にヨアンナがしばしば姿を現すようになり、彼女のこのようなイメージがルター派にとって教皇=反キリストのテーマを宣伝するために格好の材料となっていったのである。

カトリック側がそれに対応して、長い間民間信仰の対象として暗黙裏に容認してきた女性教皇ヨアンナについて対処し始めるのは1562年になってからである。ルターと同じアウグスティヌス会士オノフリオ・パンヴィニオ(1530〜1568)は、教皇庁から委嘱されて詳細な検証を行い、ヨアンナの物語が実話でないとの結論を示した。カトリック側はこれを受けて女性教皇ヨアンナ非実在説を打ち出すようになった。特に、新しく創立されたイエズス会の論客は、1584年のゲオルグ・シェーラー(1540頃〜1605)の論考とその2年後のロベルト・ベラルミーノ(1542〜1621)の『ローマ教皇論』に見られるように、パンヴィニオの説に全面的に依存しながら、ヨアンナの実在性を否定した。

このカトリック側の反応はもちろんプロテスタント側の文書の洪水に対抗するものであったが、後にはカルヴァン派と合理主義者の攻撃が加わった。1650年、カルヴァン派の牧師ダヴィッド・ブロンデル(1590-1655)が、ヨアンナ実在説を詳細に論破する書物を出版した。当時はポピュラーになったこの書物に対して、カルヴァン派の論客は不満であり、一時ヨアンナの問題についての議論が再び盛んになったが、それが最後の論争となった。著者は、ブロンデルの著書が「ヨアンナ伝説の生命の終わり」を画したと述べている。

しかし、ライプニツ(1646〜1716)は、ヨアンナの物語が小説家にとって格好の素材となる多くの可能性があることを指摘している。史実性が完全に否定されたヨアンナはフィクションの世界に生き続けた。著者は最後にこの問題にかなり長い章を当て、ボッカッチョ(1313〜1375)から、1935年にベルナノス(1888〜1948)が書いた『ある犯罪』(Un Crime)までを扱っている。

(高柳俊一/英文学者)

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